彼岸百貨店新装開店につき
 意味なく店長の挨拶 

 とりあえず過去は水に流して、ボランティアの管理人の出奔も忘れ、新装開店に漕ぎつけました。これを記念し、改めて店長島田雅彦の口上。

 日本に暮らす人々は主婦であれ、老人であれ、子供であれ、日々退屈をやり過ごす知恵を絞っている。日記や短歌、俳句は退屈を極まる日々の移ろいを個人の方言や5・7の韻律に託して記録するジャンルだし、料理や生け花、茶道、園芸もまた、家政をスノビズムで装飾したアートであり、退屈を紛らす素養といえる。それこそ千年前に宮廷の女官たちによって書かれた随筆を読んでも、日本人はよほど退屈し続けてきたのだとつくづく思う。

 ある時、SONYの社員が嬉々として私にパソコンの新しい機種の拡大された機能を親切に教えてくれた。三年前の旧型に標準装備されているソフトの三分の一さえ使いこなせずにいた私は一言いった。

――新機種を開発した人も使いこなす人もよほど退屈しているんだな。

 実際、SONYにしろ、NINTENDOにしろ、KARAOKEにしろ、世界的に成功した日本製品は全て、退屈をやり過ごすための技術を結集した物である。

 戦争も福祉も環境保護もエロスも、そして、死までもが産業化され、情報化され、資本主義に組み込まれている。かつて、シュールレアリストと呼ばれた夢のコレクターたちも目を回すほどのスピードと無意味さで商品が電子の流れとなって、世界を駆け巡っている。もはや何処にも中心はなく、無数の網目に埋め尽くされ、無数の欲望が交錯している。その欲望を統合するいかなる理念も哲学も存在しない。その代わりに退屈と退廃がはびこっている。そんな世界経済の飽和状態を最も如実に示している場所が郊外である。国家や共同体の幸福を追求する場所として設計された郊外を舞台に近頃、妄想の内に囲っておくべき陰惨な事件が多発している。カルト教団による毒ガステロを筆頭に、連続幼女殺人事件、医師による母子殺人事件、中学生による小学生の殺人、主婦による幼女誘拐殺人、無差別児童殺人など、列挙しているそばから「そんなこともありましたね」といわれそう。憎悪や破壊本能が、平板な日常の中からいきなり飛び出してくるような事件ばかりである。それらの犯罪には明確な動機も目的もない。しかも、誰もがその事件の加害者になりそうだと、自覚しているのである。まるで、理性や倫理自体が摩耗してしまったかのように。日常に理由なき憎悪や人殺しがはびこると、その因果の分析に人々は躍起になる。その結果がミステリーの隆盛だ。

 そこが学校であれ、ハイジャックされたバスであれ、鉄道の車内や駅であれ、路上であれ、誰かが死ななければ、誰かを殺さなければ始まらない。作家たちは、ありのままの悪を描くと称して、無差別連続殺人や大量虐殺のディーテールを描きまくる。ほぼ同時進行で似たような凶悪犯罪が起こる。現実に追いつかれた小説ジャンルはいずれその使命を終えなければならない。現実はあまりに救いがないので、救済の祈りを込めて死を想うのが、大量死時代の小説の流儀となりつつある。

 自殺もまた多い。アイドルに殉死したり、ネットを通じて青酸カリを買ったり、自殺未遂の体験談を交換したりすること自体が日常化している。私の読者にも手首に無数の切り傷を持った女がいる。思春期以後で最も自殺と縁が深い世代は四十代で、死因の第一位を自殺が占めている。現在四十歳の私には他人事ではない。

三、四十代の計画的な自殺者は、自分の死後に残された家族を思って、保険に入っておく。契約後一年以上が経過していれば、自殺でも保険金は下りる。事実、保険の契約から一年後の自殺が多いという。自分の死後の世界をどう想像するか……それこそ倫理の問題である。どうせ死ぬのだから、全てが許されている、と思うのは間違っている。

自由、自由と人はいうが、みんな誰かに与えられて、それをありがたく享受しているだけだ。命令されたり、禁止されたりしなければ、誰も自由にはなれないし、自由の意味もわからない。そもそも自由というものは、永遠と同様、現実世界には存在しない。自由とは孤独である。真に自由であるためには、金や見栄、国家や社会に惑わされることがあってはならない。今がよければいい、自分たちだけが幸福ならいいと思っているあいだは、奴隷状態を生きている。たとえば、合理的に金を稼ぎたいというのは、多くの人の同意を得られる欲望であるがゆえ、資本主義は最も信者の多い宗教であるともいえるのだが、その資本主義からも自由であるためには、死者になるしかない。もっとも、死者さえも商品化するのが資本主義であるから、死んでしまっては真に自由になることもできない。

人類は幸福や快感や権力からも自由であることが可能になった。私たちは自殺する自由を持っているが、それは真の自由ではない。死からも自由になった者だけが、自由の過酷を思い知る。

 ところで、資本主義の狂気をコントロールできるのは、国民の代表機関たる国家だけであり、その国家が取り得る最良の政治形態は、社会民主主義だけである。いまさらスターリン主義でもファシズムでもないだろう。逆にいえば、冷戦後のグローバリズム経済は、どの政党が政権を握ろうが、政策に大差がないような事態を招いた。

 絶対多数の絶対幸福という考え方、PCとも呼ばれる幸福の原理は、社会を構築していく上での一番合理的な再分配方式と定義もできよう。社会資本を整備し、福祉の充実を図り、生活水準を上げることで、国家は国民を飼いならした。しかし、国家によって再分配される見せかけの幸福を嫌う者もいる。それは絶対多数の絶対幸福を標榜する功利主義者からみれば変人だったりマゾヒストだったりするかもしれない。だが、往々にして、金持ちになりたくない者、長生きしたくない者、国民でいたくない者、の方が倫理的である。なぜなら、日本やアメリカが国民にもたらす幸福は、第三世界の搾取の結果でもあるからだ。

 社会民主主義の理念によって、もっぱら国家が中心になって行ってきた富の再分配を、市民の手で行う方法がさまざまに模索されている。ただ単に倫理を唱えるだけではなく、また国家による恩恵を当てにすることなく、消費者の立場から、また世界市民の立場から、あるいは未来の人類への責任から、グローバリズムという名の世界帝国から自由であろうとする運動。資本と国家と国民が癒着した権力構造をあえて破壊しようとする政治家は今のところいない。いるとすれば、政党政治の外部にいるが、普通そういう人をアナーキストと呼ぶ。

 グローバリズムを唱えてきたアメリカは、資本主義を世界宗教化し、最も合理的に世界経済を牛耳る政治システムを遂行した。それによってもたらされた退屈と不毛が世界を覆い、電脳空間を駆け巡る。

 情報伝達を徹底して加速し、一年を三ヶ月に縮め、そのスピードそのものを取引しているような市場では、オリジナリティを作り上げることで差異を生産する業種は必ず遅れを取ってしまう。文学者やアーティスト、研究者などはその最たるもので、今や彼らはおのが生産手段や流通経路を見失ってしまった。情報の平等化、民主化といいながら、実は最も効率よく市場操作を行う反革命的システムがインターネットなのだともいえる。実際のネット産業の形態は、通信からクレジット決済、物流から広告まで全て大資本が一元的に押さえられている。この状況で文学者、アーティスト、研究者が再び、表現手段を取り戻すためには、新たな市場、流通システム、価値転換が必要だ。売るものは労働力しかないが、失業を余儀なくされているというような人々が何をなすべきか?考えるべきはその問題である

 私は日本人であることを誇りにしても、恥じてもいないが、その責任は取らなければならないと考える者である。たとえば、戦争や外国人差別、冤罪、歴史の改竄などに対しては、国家を批判する責任があると考える。その責任を果たす限りにおいて、人は主体的になれるのであり、また自由でいられるからだ。国家、家族、共同体の合意に基づいて幸福を実現してきた20世紀の資本主義と、社会民主主義を越える原理はあるのか?人は国民である前に世界市民であることはできるのか

 今後、資本制経済に関わりながらも、従来の市場や企業とは別のシステムを立ち上げ、ドルや円とは別の貨幣によって、労働や生産物の交換を行う運動は加速するだろう。国家の厳重な管理のもとに置かれ、国家の信用をも担う貨幣とは別に、独自の制度のもとで貨幣を発行するということは、資本、国家、国民の癒着から自由な対抗運動たりうるであろう。従来の市場では換算されにくい価値を取引すること……それはインターネットの最も能動的に活用することにもなる。

 そこで彼岸百貨店は再び開店と相成った次第。